L'Appréciation sentimentale 2

映画、文学、漫画、芸術、演劇、まちづくり、銭湯、北海道日本ハムファイターズなどに関する感想や考察、イベントなど好き勝手に書いてます

上野の森美術館のフェルメール展

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東京の上野の森美術館で開催されているフェルメール展を見てきた。一度に8作品(期間中に入れ替えがある)。現存しているフェルメールの絵画はおよそ35,6点といわれているなかで、その4分の一が日本に集結しているのだから、これはまたとないチャンスだろう。

フェルメールは異次元の画家だ。他のどの画家とも違う。もう全てが特別なのだ。フェルメールを見たのはこれまで3回。すべて上野の美術館だった。ヤン・ステーンとかピエール・デ・ホーホといった同時代の作品も多数展示されているが、フェルメールが飾られている部屋に入ると、これまで見てきた絵画の記憶が全て吹っ飛び、フェルメールが残した光に全身が打ちのめされる。

今回もそうだった。展示室、最後の部屋に通じる白い廊下を抜け、青い壁を背景にフェルメールの作品が一堂に並んだフェルメール・ルームに足を踏み入れた瞬間から、全身に鳥肌が立ち、作品の持つ静かに襲われた。倒れそうになるのをこらえるのが精一杯だった。魂の奥底に至福の喜びというか、法悦のような感覚が広がっていくのだ。

全てが完璧だった。人物の配置や静物の置かれている構図、光の描かれ方、色彩のリアリティー、床のタイルの幾何学模様、「牛乳を注ぐ女」や「真珠の首飾りの女」の絶妙なポーズ・・・。「マルタとマリアの家のキリスト」だけが唯一聖書に取材した作品だが、「牛乳を注ぐ女」「ワイングラス」「リュート調弦する女」「真珠の首飾りの女」「手紙を書く女」「赤い帽子の娘」「手紙を書く夫人と召使い」。どれもが圧巻で、観賞していると目がうっすらと涙に包まれてくる。

「手紙を書く夫人と召使い」の手紙を書いている婦人の右斜め後方で、窓の
外に目をやっている。だが、召使いは夫人には関心を寄せず、窓の外を見やり、決して二人の視線は交錯しない。一方、「ワイングラス」における紳士は、ワインを飲み干す女性の一挙手一投足に釘付けで、ワインをグラスに注ぐタイミングを見計らっている。みんなオランダの市井の人々で、そこで世界は完結している。行ったことも会ったこともないのに、しかも、現代では決して見かけることがない場面なのに、なぜか、見たことがあるような、不思議な懐かしさが感じられる。

「手紙を書く夫人と召使い」と「真珠の首飾りの女」は10年ぶり二度目の再会だ。何度見ても初めて出会ったような、いつでも魂に新鮮な驚きと喜びが、ひたひたと心の奥底に迫ってくる。なんという贅沢な体験だろうか。

時間には限りがある。後ろ髪を引かれる思いでフェルメール・ルームを後にすると、そこはお土産売り場だった。展示されているフェルメールの絵はがきを手に取ってみると、先ほど生で見るよりも遙かにディテールが細かく確認することができる。生では見ることができなかった、驚くほど緻密な、途方もない仕掛けがまだまだちりばめられていたのだ。一体自分は何を見てきたのだろうか。自分の観察眼のなさに、ただただ絶望するしかない。人混みで作品に容易に近づくことはできないので、単眼鏡は必須だ。これは教訓である。

 

想田和弘監督『THE BIG HOUSE』

待望の想田和弘監督による観察映画第8弾『THE BIG HOUSE』をようやく見ることができた。ミシガン大学vsウィスコンシン大学アメリカンフットボールの試合が行われるスタジアム、通称THE BIG HOUSE。収容人数が11万人を越えるというから、我が日本ハムファイターズの本拠地札幌ドームのおよそ3倍弱に当たる。こうなるとほとんど小さい市の規模だ。しかも、THE BIG HOUSEで行われる試合で、観客数が10万人を下回ったことがないというから、驚きの観客動員エネルギーである。プレイグラウンドと観客席の途方もない巨大さの対比、観客の凄まじい熱狂が随所に映像に映し出されることによって、アメリカという国の恐ろしいまでの巨大なスケールが露わになる。

だが、単に数が巨大だからスゴイという単純な見方は、この作品の一側面でしかない。このスタジアムにかかわるあらゆる人たち、観客やプレイヤーはもちろん、スタジアムのスタッフ(警備員、レストランのシェフや店員、営業スタッフ、記者、カメラマン、場内放送アナウンサー、掃除業者、医務室の医師と看護師、ダフ屋、大道芸人etc)など数え切れないくらいTHE BIG HOUSEに従事するミクロのまなざしから、アメリカという巨大なマクロの世界を対比させているところに想田監督の慧眼がある。

特徴的なのは、何よりも突き抜けた明るさだ。ミシガン大学への愛校心、帰属意識のプライドがチアリーダーや応援演奏の熱狂ぶりは、底抜けの笑顔と身体的躍動感で満ちている。折しも、この作品の撮影がちょうど2016年のアメリカ大統領選挙の前ということもあり、所々に、トランプやヒラリーを批判したり賞賛するメッセージや横断幕が掲げられている。単なるスポーツの祭典ではなく、試合に集う人たちに向けた政治的プロパガンダが垣間見えるのだ。

ミシガン大学ロゴマークであるシンボルカラーの黄色と青で構成された「M」のロゴを、星条旗や日の丸に変えたらどうなるだろうか?それはもはや国に熱狂する狂気的な姿に変貌する。10万人の人間と一体化して酔いしれる感覚が、戦争への熱狂に転じた場合、どういうことになるのか?もはやスポーツの試合に熱狂するだけではない、凄まじいまでの群集心理の危うさと紙一重だ。

といっても、もちろん、THE BIG HOUSEは、北朝鮮のような将軍様を礼讃するマスゲームではない。ホームカミングパーティで、奨学金のおかげでミシガン大学を卒業できた感謝の辞を現学長に述べるオハイオ州出身の卒業生や、巨額の寄付によってVIP特等席で試合を観戦するOB(とその家族もみなミシガン大学出身である)のように、連綿と続く感謝の様式が、狂気的群集心理の危うさを中和する作用として果たされている。

余談だが、ミシガン大学は数学者、藤原正彦氏が留学した大学だ。『若き数学者のアメリカ』(新潮文庫)で描かれたように、冬の厳しさでノイローゼになった土地でもある。また、ミシガン州デトロイト自動車産業の衰退と財政破綻は、ミシガン大学の間近で起こっているのだ。ミシガンという土地にも、アメリカという国の光と影の凄まじいまでの落差、対比が隠れているのである。

『じんぎすかん』文学フリマ札幌にて販売

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唐突ですが、『じんぎすかん』という冊子を創刊!急遽文学フリマ札幌にて販売しました。私も参加させていただいている札幌ワカモノ文学サロンのメンバーで急遽冊子を発行して文フリ札幌に出店しようという話が突然持ち上がったのがたしか4月下旬。そこから急遽メンバーで原稿を書くことに決定して、月一回の活動で時間的にもメンバーの原稿を講評してブラッシュアップするヒマもなく、書き上げて即掲載という実に突貫工事的な状況だった。よくぞまあ完成したものである。

 

ついでなので、ブースでは自著の『ぼく、学級会で議長になった』も同時販売。先週から雨続きだったけど、当日は晴天に恵まれたこともあって、売り上げは思ったよりも大きかった。お買い上げくださったみなさま、どうもありがとうございます!!!

 

私が寄稿したのは論文的なエッセイで、人工知能と国語教育、読解力にかんする考察である。新井紀子著『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』からインスピレーションを得て、人工知能が小説を書くことや、現代国語の教育の問題点を、国文学者の石原千秋の視点を借りつつ、半ば批判的に論じたものである。人工知能の台頭で人間の仕事が奪われないようにするために一番重要なのは読解力である。だが、学校の国語教育は詰まるところ道徳であり、読解力の養成にほとんど寄与していない。これってどうよ?というのが大まかな要旨である。読解力の問題は調べれば調べるほどこれは大きな問題で、国語教育が抱える闇なのかもしれない。イ・ヨンスクの著作や言葉と国家の問題など、今後もっと自分で研究したいテーマも広がった。

 

あとから読み直すと、もう少し表現をブラッシュアップしたり、詳細な注釈をもっと付けたり参考文献を載せたかったなぁという思いもあり、不備は否めないが、言いたいことは伝わったのではないかという手応えは多少なりともある。

 特に査読や審査があるわけではないが、冊子を創って論考を載せるのは、自ずと気合いが入るものである。はたして第二号は出るのか??その時はまた何か新しい考察を寄稿させていただきます。お楽しみに!

未来予測は天気予報ではない。

前回の続き。
河合雅司著『未来の年表2人口減少日本であなたに起こること』(講談社新書)は、絶望の未来のオンパレードだ。読むと非常に絶望的な気持ちを抱く、というか、危機感を煽る記述が満載だ。だからといって、これはやばいと焦るのは早い。なぜなら、『未来の年表2』で描かれているのは天気予報のようなもので、現状のデータから未来を予測した地続きのフォーキャスト(予測)した未来でしかないからだ。しかも、悪化した問題を解決したとしても、その未来はただの現状維持にすぎない。本書を絶望の教科書として扱い、問題解決にもとに囚われると、非常にお役所的な、画一的で、現状維持のつまらない未来が一丁上がりとなる。

 

未来の予測は、天気予報を見て対策する自然災害と違って、人間の力やアイディアでチャンスを無限に広げることだってできるのだ。アラン・ケイの「未来を予測する最善の方法は、未来を発明することだ」という有名な言葉を思い出す。理想をどう実現するかをまず決めて、そこからどうすればいいのかをバックキャスティングして考え、実行すること=発明することが、未来を最も楽しく考えることになるだろう。

 

現状を一歩抽象化させた視点から、年齢、職業など関係なく、多多様な多くの人たちと、現状に囚われた限界を取っ払って、理想の未来をまず決め、そこから未来のシナリオをバックキャスティングして考えてみる。フューチャーセンターなどで行われる「デザイン思考」だ。札幌市では上田市長の時代(2012年)に札幌1000人ワールドカフェといったイベントが行われており、その模様については私もブログでレポートした。そのワークショップの成果がどこまで反映されて、秋本市政に継承されているかまではわからないが、むしろあのような、未来を考えるワークショップを毎年定期的に開催した方がいいのではないだろうか。

 

市政に期待するよりは、ミニマムなところから、少しでも多くの個人が「理想の未来」を発明するべく実践するのがベストだろう。参考となるのは、リンダ・グラットン『LIFE SHIFT』で描かれているような、個人が様々な未来を自らのライフストーリーに構築していく方法だ。現状維持ではなく、理想の生き方を実践するプロセスが、個人単位から社会へと波及していくことにつながる。そして、故・渡辺保史さんが2004年にせんだいメディアテークで行った「共有のデザイン」(ダウンロード可能)のように、個人とコミュニティの実践もまた今なお参考になる。

不安を煽る本書がベストセラーとなる現状は、かなり危機的な状況だろう。不安は読者を思考停止させ、理性を喪失させる。だが、ここで思考停止してはいけない。どうせ対策で費用が掛かるなら、理想の未来からからバックキャスティングして考えた方がはるかに楽しく、楽しい未来を構築することができるだろう。絶望的な未来をフォーキャスティングするよりも、理想の楽しい未来をバックキャスティングして実現していこう。「未来の年表」に囚われずに、柔軟で逆転の発想と思考の転換こそが、絶望的な未来を変えるために何よりも必要なことだと思う。

『未来の年表2人口減少日本であなたに起こること』河合雅司(講談社新書)読書会

作文教室ゆうの主宰にて、先日、河合雅司著『未来の年表2人口減少日本であなたに起こること』(講談社新書)の読書会が行われた。最近この本がベストセラーになる、多くの書店でも平積みされている。

未来の日本社会で起こりうるトラブルを、膨大なデータをもとにこれでもかとばかり明示し説明する苦労は敬服に値する。だが、データやパーセンテージを逐一文章で説明して読まされるとなのはどうだろうか、という意見も多く出た。グラフなどで一目瞭然に視覚的に工夫した方がはるかにわかりやすくはないだろうか?

読書会で話題に上がった意見は以下である。
少子高齢化は自明であり、それを前提とて、今いる人材を生かすことに尽力する。
・本書で描かれている問題が起こるのは子離れできない親に原因があるのでは?
・北海道出身の北海道民が立ちゆかなくなる問題が起こる→教育レベルを上げる必要あり。
・道内の道立大学を統合すべし!
北海道新幹線をやめて、教育にお金を回せ!
補助金行政が問題。
・予算不足は軍事費の上昇によっての予算を圧迫させている→旭川は元々ロシアから守るためにできた町という歴史がある。
コンパクトシティとして、札幌に全て集中させるべきか?否か?
・年齢差別をなくせ!老害厳禁。高齢者の知恵を生かせ!

以上のような意見が飛び交った。本書で話題になったテーマから、北海道ならでは視点もたくさん出た。なぜなら、本書で描かれている事象は、必ずしも日本全体で起こるわけではない。地方都市や田舎、地縁や地縁の残っている地方都市や村落ではまた事情が違ってくる。そのため、部分的な事象があたかも日本全体を覆っているかのような記述は違和感を感じないでもない。しかも、本書で提示されている問題の尺度がマクロなのに対して、その対策が恐ろしくミクロすぎるので、問題と解決がかけ離れすぎているのではないか、という意見も出た。

・・・長くなるので続きはまた次回。

魂の消耗を防ぐ精神的補充の大切さ

しばらく間が空いた。オヒサシブリデス。

ブログを書くという行為は時に非常に孤独で、続けるには相当な根気が必要だ。かれこれ13年不定期に渡ってゆるやかに更新しているが、それでも続けるのはなかなか至難の業だ。

最近、K先生による「“田舎”で生き延びる方法」(1999年ver1.04)を読んだ。20年近く経っても全く古びていない内容で、モチベーションが低下する要因が極めてロジカルに論じられている。対象は研究者だが、これは日々あらゆる活動を行う(行おうとしている)全ての人に通じる内容だろう。大ざっぱに言えば、“田舎”には同業者が少なく、大型書店もないため、刺激が少なくてやる気の量が低下する機会が多いとのことだ。そのため、「やる気」の精神的補充が絶対に必要なのだと説く。

これは身につまされた。というか、何となく漠然と感じていたことが、明確に言語化されて大いに納得した。普通に毎日生活するだけでも、何かしら意欲は少しずつ失われ、それが自明になりすぎてしまって、全く力を発揮することができないくらい意欲が低下することがある。そんなコンディションでは、なおのこと精神的補充の確保をおろそかにしてしまって、ますます意欲が低下して、補充する意欲すらも消滅する...そんな悪循環は避けなければならない。いかに精神的補充を行うかは、人生をサバイブするための必須かつ重要なスキルなのだ。いわゆる「鬱」は、様々な要因でやる気が著しく低下して引き起こされるのだろうと思う。

札幌はここでいう“田舎”と言えるほどではないが、それでもクリエイティブな刺激を得る行為は、意図的に行わないと厳しいのを感じる。以前からときおり感性を磨くために東京の美術館に出掛けていたのは、潜在的に精神的補充が必要だと心で感じていたからだろう。普通に毎日生活するだけでも、何かしら意欲は少しずつ失われ、それが自明で気づかなくなってしまって、全く力を発揮することができないくらい意欲が低下することがある。

精神的補充で一番いいのは、気の合う人と会うことだろう。お互いに締め切りやその他の都合などで、約束を取り付けるのも難しいことが多いが、やはり気心の知れた人と専門分野の話をするのは、精神的健康にもすこぶるよい。

ほかには、書店に行く、思い出深い場所を再訪してみる、銭湯や温泉に行く、旅に出る、早朝の朝日を浴びる、演劇や映画を見る、日記に心情を綴る、部屋や本棚を整理する、掃除する、お気に入りのカフェに行く等々、いろんなメニューが考えられる。ほかにも、力が回復する言葉だけをまとめた秘密のノートを読み返す、というのもいいだろう。大切なのは、罪悪感を感じずに楽しむことに尽きる。

「魂の致命的な敵は、毎日の消耗である」と言ったのはロマン・ロランだ。けだし名言である。

ある古書店主との会話から

久しぶりの更新。
先日名古屋を訪れる機会があったときに、某古書店に立ち寄った。ここに来るのは2回目で、約2年ぶりの来店である。

薄明るい橙色のランプに照らされた、内装と空間センスの良さが感じられるその古書店は、豊富な品揃えや分類、雰囲気など、おそらく東海地方ではトップクラスの古書店だと思っている。春という時期柄、ある老夫婦が引っ越しのため、蔵書を売りに来店されていた。自分の立ち位置からレジはほとんど死角になっていて状況は分からず、聞き耳を立てていたわけではなかった。査定を終えたマスターは「いい本なんですけれどもね」という返事をされていた。どうやら、マスターは、買い取りを拒否したのか、ほとんど値段がつかないような感じだった。主に旦那さんがマスターとやりとりをしており、奥様は付き添いで、店内を見て回っていた。旦那さんは提示された額を受け入れたようだった。
そして、マスターの口から驚くべき衝撃の言葉が出てきた。

「もう今年で店を閉めようと思っているんですよ」


耳を疑った。え!?


「やめるにしても、その後どうするかまだ全然決めてないし、在庫の問題もあるからね」


本を売りに来たお爺さんも「もうみんな本を読まなくなったからね」と、こういう時代だから仕方ない、そんな会話を交わしていた。


来店回数は二回目で、全国を見回しても、これほど凝った空間デザインの雰囲気のいい店はそう多くはない。最初に来店した時点で僕は一発でファンになっただけに、この店がなくなってしまうのは、身を引きちぎられるような衝撃を受けた。
老夫婦は帰った後、店内は自分の後に来店された中年の女性の二人となった。奥の方にある西洋文学の棚をこれから見ようとするときに、マスターから「この後出掛けるので、一旦閉めさせていただきます」と言われた。一番見たかった西洋文学の棚を見ることができない無念さを引きずったまま、購入しようと思った文庫本二冊の会計を慌てて済ませてもらう際、「閉店するんですか?」とマスターに声を掛けて先ほどの真相を聞いてみた。

「今年中に閉店って本当ですか?」
「もう今日明日にでもやめたいと思ってますよ。まだ全然決めてませんけど」
「えー、ショックです・・・」
「だって、必要とされていませんから。毎日やっているとわかるんです」

マスターの口調からは、どんなに説得されても、続けるつもりはもうないと決然とした意思が感じられた。もはや闘いに疲れた戦士ではなく、敗戦を受け入れて、次をどうするか、そういうフェーズに移っているようだった。

一体、教育者は何をやっているのだろうか?本の面白さを伝える工夫を次世代の子供たちにしているのだろうか?読者の購買力が低下している経済状況で、日々の生活に追われて疲労困憊という毎日では、本を手にする気力もない人がほとんどかもしれない。その様な時代に古書店を経営するマスターは、誰よりも本を売ることの困難を痛感しているのだろう。

そんなやりきれない思いが次々と頭をもたげてしまった。
少しでも本を読まれるように、何かできることはないものだろうか?

ここに記したことはオフレコの話で、正式発表ではないため、どこの書店かは記さない。願わくば、次回訪れるときも、この店が存続して、元気な姿でマスターが店番をして欲しい。ウェブサイトで閉店を告げる新着情報が出ないことを願っている。