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L'Appréciation sentimentale 2

映画、文学、漫画、芸術、演劇、まちづくり、銭湯、北海道日本ハムファイターズなどに関する感想や考察、イベントなどのレポート

『ぼく、学級会で議長になった』読書会@学習塾はる

拙著である『ぼく、学級会で議長になった』が発売されて一月半ほど経ちました。幸いにも、評判は上々のようです。昨年暮れには共著者の三神さんがAir-G’FM北海道)の番組Actionのチバカフェと言うコーナーにも出演されて本を紹介してくださるなど、いろいろと宣伝していただいています。

1月14日に幌平橋駅近くの学習塾はるにて月一回行っている読書会の課題本に『ぼく、学級会で議長になった』を選んでいただきました。元々この読書会は、仲間内で月一回行っているイベントで、読書会で話題になったトピックからよさげなものを、硬軟様々なものから課題本としてピックアップしています。これまで3年以上続いており、今回で40回目!その様子はこれまでも何回過去のブログでも紹介しています。以前ブログに書いた後も、ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』、デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学 』の読書会が行われ、打って変わった選書となりました。メンバーは自由参加で、いつものメンツもいれば、今回で二回目という方、そして初めて参加された方が二人いらっしゃいました。

さすがに自著が読書会で採り上げられるとは夢にも思いませんでしたが、予想に反して、本の内容を事細かに取り上げて作者がまな板の鯉にされる、というわけではなく、ファシリテーションを教育に導入することの意義や問題点について、様々な論点から議論が飛び出しました。そのほとんどは、本書の内容を遙かに超えた議論になって、場は大きく盛り上がりました。


・本の内容はセミナーの教員のやっていることに近い。
・日本の義務教育は一方的に先生が学生に話すスタイルだが、ファシリテーションを取り入れることによって、よけいな分断が起きるかもしれない。
・学生が授業何も話さないのは、日本の「和」ではないか?
・現状では教員がファシリテーション教育を受けていないので、はたしてうまく教員がファシリテーションを授業に導入できるのか?
・教員養成の段階でファシリテーションを取り入れるべき。
ファシリテーションをうまくできる教員とそうでない教員の格差が生じるのではないか?ひいては学校格差になって表れてくるのではないか?
ファシリテーションを行うことによって、トラブルが起きるのでは?その対処は?
・教員同士の協力が必要。担任だけでは足りないので、学年全体での協力し合う必要がある→担任制を止めた方がいいのでは?
ファシリテーションを教育でやるにはエネルギーが必要。最初はクラブ活動からファシリテーションを始めるといい。
・学校教育でファシリテーションを導入する学校とそうでない学校の格差が生じる可能性がある。教員にどのようにファシリテーションのことを知ってもらうのか?
文科省トップダウン方式でファシリテーションをカリキュラムに取り入れるとロクなことにならないのではないか?
ファシリテーションは、役所が住民を説得される手段として使われているのが現状。
ファシリテーターが参加者を促す方向性が重要。
・そもそも学校で学芸会を行うとき、学芸会を行う意味はあるのか?という前提を疑う議論が出てきたときはどう対処するのか?
ファシリテーションはあくまで「促す」ことであって、教育の「進歩」ではない?
・そもそも教育でファシリテーションを行う意義はどこにあるのか?成績が上がるなど、わかりやすい成果の可視化が必要ではないか?
ファシリテーションで、少数意見、マイナーな意見をどうすくい上げるか?
そのためにも、多角的な意見をどう出すのかが重要。
有識者会議のように、日本は素人が専門的なことをやってはいけない、という風潮がファシリテーションの導入を妨げているのではないか?
・前提を均一化する必要がある。


以上のような議論が出ました。
というわけで、「教育でファシリテーションを」と呼びかけても実に多くのハードルがあるようです。私自身の感想としては、一口にファシリテーションと行っても結局は人間と人間の生々しいやりとりがウェイトを占めるため、人を通して学ぶのがファシリテーションの本質にあるのではないか、という思いを抱きました。

最後はみんなで記念写真!本当にありがたいですね。

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この読書会の様子は、いつも読書会でファシリテーターを務めている藤本さんのブログでも紹介されています。よかったらこちらもご覧ください。

本書を手にとってくださった全ての人に、心からの感謝と愛を捧げます!

井上浩輝写真展@カフェエスキス

小、中学校時代の同級生であり、2016年に日本人で初めてナショナルジオグラフィックで最も優れている写真20枚の中に選ばれた井上浩輝氏のトークイベントが開かれるということで、札幌の円山にあるカフェエスキスに行ってきた。せっかくクラスメイトの晴れの場なので、当時の同級生にも何人か声を掛けてみたところ、歌手としてライブ活動を精力的に行っているいくもまり氏も応援に駆けつけてくれた。

彼と最後に会ったのが1999年で、なんという偶然の巡り合わせなのか、彼はカフェエスキスの入っているビルのマンションの一室に住んでいた。今も覚えているのだが、99年の文化の日に、中学時代のクラスメイトが10人くらい集まり、ワイワイやったのが最後である。その後彼は新潟に行ってしまって、以来十数年以上も音信不通になってしまった。その間に、彼は世界的なフォトグラファーとして故郷の札幌に凱旋してきたわけである。

カフェのドアを開けてテーブルにいた彼の方に近づいていくと、ぼくが誰かがすぐにわかったようで、「久しぶりだね。来てくれて嬉しいよ」と本心から喜んでくれたようだ。やはり来てよかった、と心から思えた。数年前にFBでつながったものの、再会まで17年以上もの歳月が流れてしまった。最初は会話に若干のたどたどしさは感じられたものの、すぐに歳月の空白感は消滅し、つい先日も顔を合わせたような、そんな気持ちになった。

トークでは写真家になったこれまでの経緯が語られた。カフェエスキスに入っていたビルに住んでいたため、いつかはここで自分のイベントを開催してみたいと思っていたこと、医者、弁護士になろうとしていずれも挫折したものの、カメラを入手したことをきっかけに写真家になるべく撮りまくったこと、東川町がまちを挙げて写真をテーマに取り組んでいるとは知らずに婚約者と一緒に移り住んだことなど、辿ってきた人生の足跡を聞いただけでも、その不思議な巡り合わせの連続に驚きを感じずにはいられない。

彼は北海道の動物、とくにキタキツネや熊の写真をメインとして撮影している。スライドで次々と映し出されるキタキツネの写真は、どれも北海道在住ながらこれまで見たことのなかった表情のキツネばかりで、こんなにもキツネの表情は雄弁で豊かなものだったのかと感心した。代表作である「たとえ君がどこへ行こうとも、どこまでもついていくよ!」と題された、雄のキツネがメスをすぐ後ろから追いかけているキツネの表情は、お互いに愛おしくてたまらないというのが伝わってきて、実にチャーミングでかわいいと叫びたくなってしまう。↓はポストカードである。

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トークイベント終了後は、近くのファミレスで閉店近くまで3人で談笑。中学卒業後20年以上経ってもこうして集まって昔話に花が咲くのは、人生のかけがいのない宝の時間だとしみじみと感じた。三人それぞれの人生で得てきた経験は全く違うが、小中学校時代に教室を共に過ごした友達と再び巡り会える幸せは、何にも代えがたいものである。またの再会を誓ってタクシーで解散。今後の活躍が楽しみだ。

なお、このトークイベントには某番組の取材カメラも来ていて、大いに驚いてしまった。詳しいことはまだ言えないが、近々予告が解禁になったら告知させていただきます。

写真展は1月31日まで。
詳しいことはお店のウェブサイトにて。ぜひ行ってみてください!
http://cafe-esquisse.net/gallery/index.php

2016年大掃除終了

クリスマスに久し振りの腰痛を発症し、その翌一日たっぷり休むとだいぶ回復した。自分の中で腰痛は、良くも悪くも、人生の変わり目に起きることが多いので、これも今後のいい変化の前触れだと前向きに捉えておくことにして、その後は部屋の大掃除をしまくり。部屋に溜まっていた、明らかに不要と思われる書類、チラシ、雑誌記事を捨てまくった。2016年最後の日の燃えるゴミの日の前日だったこともあって、一度始めると歯止めがきかなってしまって、市で定められている燃えるゴミの袋で最も容量の大きい40リットルいっぱいに詰め込む頃には、いつの間にか明け方5時近くになってしまった。総重量はおそらく20kg近くはあるだろう。部屋の見た目は何も変わらないが、こんなにも不要なものが部屋にあったのかと思うと驚きである。腰痛の病み上がりにヘヴィなゴミ袋をごみステーションに運ぶのは、実に大変な作業ではあった。

それで終わりかと思いきや、なんだか普段なら手の届かないところや、物陰に隠れている箇所などを重点的に掃除をしなければ気が済まなくなってしまって、「もういいや、ここで終了」と思っても、汚れが残っているところはどんよりとした波動を感じて気になって結局大晦日も午前中から掃除を慣行。ようやく終わったところである。不要なものを捨てて部屋の汚れも取れた分、心が軽くなったような気がする。
 

今年放映されたフジテレビの世にも奇妙な物語で、深田恭子扮する新人アナウンサーがものを捨てた分だけ新しい仕事が入ってきて、どんどん出世していくというストーリーがあった。捨てるために捨てる、というのは断捨離の罠だ。断捨離が流行するのは、捨てた分だけ何か新しいことが起こるのではないかという期待感が不要なものを捨てる意欲を駆り立てるからだ。

人生でいろいろなことを経験するたびに人間の波動は変わるものである。それに伴って必要なものや不要なものも変化していく。かつては熱烈に必要だったものでも、今では全く見向きもしなくなったものも出てくる。時期が来れば、いらないものは自然と捨てることができるようになっていくから、あまりこだわらないのが一番だ。

去年も一昨年もほとんど掃除らしい掃除をしなかったが(3年前はこれでもかというくらいの書類を捨てたものだが)、それだけ昨年末と今とで心身も大きく変化したのだろう。今はもう罠に陥ることがほとんどなくなって、不要なものを捨てた分、なんだか自信も出てきた。

今年はなんとか本も出すことができた。いろいろと難産で、はたして本当に出版されるのだろうかと思うことも一度や二度ではなかったが、ともあれ無事に世に出たことで本当に安心した。来年はもっともっとインプットを増やして、インプット以上にアウトプットを増やしていきたいと思う。

遠藤周作文学館に行ってきた

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今年の6月か7月くらいに、地元の北海道新聞の何かの記事で遠藤周作記念館のことが紹介されているのを読んで、所在地が長崎であることを知り、大いに興味を持った。調べてみると、長崎市のバスターミナルからバスで75分ほどらしい。それならば、長崎に行く際にうまく時間を工夫すれば訪れることが可能であると算段をふんでいたが、うまい具合に12月に所用で長崎に行く機会があり、今回を逃すともう二度と訪れることはないであろうと思い、遠藤周作文学館に向かった。

長崎駅の観光案内所でルートを訊ねると、長崎外海地方のパンフレットをもらい、駅の歩道橋を降りたところにあるバス停を紹介された。予定よりも7,8分ほど送れて到着したバスに乗り込むと、文学館までバスで1時間半以上もの時間がかかった。山を何度も越えるため、左右の急カーブが何度も連続して揺れが激しく、乗り物酔いする体質のためバスでの読書はあきらめ、景色をながめやる。北海道では考えられないくらいの細い道とその周辺に連なる家並みに目を奪われる。町をいくつも通り抜け、狭い山道をバスは高速でグイグイ突き進む。目的地となる道の駅のバス停で降りてから、細い道を下った先にあるこの文学館は、ほとんど崖の上に位置しているため、夕方になるとその美しい日差しが注ぎこむ。この場所こそ、『沈黙』の舞台となったトモギ村のモデルなのである。

文学館内部は大変見晴らしのよい光が充溢する空間であり、グレゴリオ聖歌の優しい音色がBGMとして鳴り響いている。遠藤周作の生い立ちや創作の苦悩の足跡がわかるように、生誕から折々の氏の言葉がパネルで展示されている。生原稿を見ると、原稿用紙の裏にびっしりと細かい文字で、何度も修正を加えて推敲を施しているのがわかる。作家の生原稿は刺激の山だ。取材ノートや原稿を見ると、小説を完成させるために苦心惨憺する遠藤周作の息づかいが感じられ、こちら側も大いにインスパイアされる。見るだけで、文学偏差値が上がってきそうだ。この刺激を受けるためにここまで来たのだ!

別室には書庫の本がきれいに整理整頓されている。伝記、古典、日本文学全集、世界文学全集など、ベーシックな文学作品がほとんど欠けることなく並べられている。これらの膨大な書物遠藤周作の作家としての土壌を形成したわけだ。『沈黙』によって遠藤周作ノーベル文学賞候補にも上がっているとされているようだが、実際はどうなのだろう?もちろん、作品の水準からして、その可能性は十分あるだろう。

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館内の壁に虹が出現。ちょうど通りかかった係員さんが言うには、季節によってステンドグラスを通して虹が出現するとのことらしい。

折しも、マーティン・スコセッシ監督が遠藤周作の代表作『沈黙』を原作とした映画の公開が来年に迫っているため、街の書店では、新潮文庫を中心に遠藤周作の作品が平積みされている。没後20年近く経つが、それでもなお、これほど絶版にならずに入手できる作品が多い作家もまた珍しいのではないだろうか。Syusaku Endoはもっと評価されていいと思う。その後は出津文化村までバスで移動し、沈黙の碑へ。

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そして、ド・ロ神父記念館へ。ここもまたすごい。ド・ロ神父の生涯には大変な衝撃を受けた。他の地域では全く無名だが、こういう人こそ教科書で紹介されるべきである。この人についてはまた別の機会に書こう。

帰りの夕日が実に美しい。虹といい、この雲と光のグラデーションに彩られた空の輝きに、ここに来たことの祝福を受けたような気がした。

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宇宙と芸術展@森美術館

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先日、東京に立ち寄った際、六本木ヒルズ森美術館で開催されている「宇宙と芸術展 かぐや姫、ダ・ヴィンチ、チームラボ展」を見てきた。展覧会のタイトルを見ただけで、即座に「絶対行かねば」という美術展を鑑賞するのは、人生のもっとも幸福なひとときである。森美術館で宇宙にまつわる展示で、しかもチームラボが出展するのであれば、行かないわけにはいかないであろう。

古来、人類は宇宙の全体の姿をユニークに予想していた。曼荼羅のカタチもあれば、それだけに、宇宙は人類にとって想像力の翼をはためかせることのできる最後のフロンティアといってもよい。中世の曼荼羅アートから、現代のインスタレーションに至るまで、星の軌道や宇宙がどれほど人間の感性を刺激してきたのかがわかる。うつろ舟と呼ばれる1803年に常陸国に降り立った謎の円盤とそれに乗っていた美女の正体はなんなのであろうか?こればかりはどんなに最先端の科学でも解明不可能だが、おそらく異星人が地球に降り立ったのは一度や二度ではないのだろう。

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ビョーン・ダーレム
ブラックホール(M-領域)》
2016/木、スチール、蛍光灯、電球、塗料/サイズ可変


宇宙ほど蠱惑的な謎をかき立て、芸術心をインスパイアするものはあるまい。その好奇心が、月に人類を降り立たせ、宙空間に望遠鏡を浮かばせ、宇宙ステーションに人間を滞在させるほどにまで科学力を進歩させたわけだが、今なお宇宙の全容はわからないことだらけである。レオナルド・ダ・ヴィンチケプラーの手稿、ニュートンの『プリンキピア』といった実在の書物などは、いかに古来より人間が宇宙に関心を寄せて研究に苦心惨憺して謎を解き明かそうとしてきたのか、人類の好奇心の飽くなき探究心の結晶であろう。

最後のセクションに位置しているチームラボの『追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして衝突して咲いていく - Light in Space』がまたすごい。専用の部屋に案内され、入口そばの床に当たっているスポットライト付近で待機するように指示されると、映像と幻想的な音楽が流れ出す。宇宙空間に飛翔する二匹のカラスの超高速の軌跡が光の帯となって空間を縦横無尽に埋め尽くす。退官するアートの白眉だ。

映像作品も多いので、全て鑑賞するなら、時間を多めに見積もってから来館した方がよい。必見である。

『ぼく、学級会の議長になった。小中学生から始めるファシリテーション入門』(柏艪舎)が発売されました。

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このたび、日本ファシリテーション協会北海道支部の三神英彦さんと共著で『ぼく、学級会の議長になった。小中学生から始めるファシリテーション入門』(柏艪舎)という本を出版させていただくことになりました。

ファシリテーションとは、簡単に言えば、会議やディスカッション、ミーティングといった話し合いの場をうまく仕切って、発言を促したり参加者をまとめるなどして、合意形成に導いたり結論を出す技術のこと。そんなファシリテーションの技術を児童文学の物語形式で小学校の学級会を舞台に学ぶことができる第一部、詳細にノウハウを解説した第二部、参考文献の第三部という構成で、私は第一部の執筆を担当させていただきました。

あとがきには、名古屋市八王子中学校の上井靖校長先生が、ファシリテーションへの熱いメッセージを寄稿してくださいました。また、日本ファシリテーション協会初代会長の堀公俊さんが「世界で一番わかりやすいファシリテーションの本」というコメントを寄せて下さいました。その言葉が本当かどうかはこれから読者のみなさまに委ねられるわけですが、ともあれ完成して無事に本を世に送り出せたことの安心感と感謝でいっぱいです。すでに「購入したよ」というメッセージを送ってくれたみなさん、本当にありがとうございます。

会議の席で議長が発言を促すべく「誰か意見のある人?」と呼びかけてもしーんとして黙ったままだったり、そんな会議はよくあると思います。時間ばかりかかって結局何も決まらなかった、時間の無駄でしかない、特定の人や力を持っている人ばかりが発言して意見を出したくても言える雰囲気じゃない・・・etc。そんな会議や話し合いを経験したことは一度や二度ではないと思います。

大人に限らず、小中学校の授業でも似たようなことは起こっています。筆者の小中学校時代を振り返っても、いくら先生が授業でクラスのみんなに呼びかけても誰も発言せずシーンとなって、ヘンに気まずい雰囲気が醸し出されたり、先生も困ってしまう、みたいな感じになることもしょっちゅうで、そんな嫌な空気の中で指名されて強制的に発言させられたり、特定の人ばかりが発言するという「お馴染み」の光景が繰り返される授業展開に、心底嫌気がさしたものでした。

こうしてみると、小中学校の授業の延長上に、不毛な会議や話し合いの場が存在しているのではないでしょうか?そんな不毛な話し合いに陥らないために、小中学校時代から次世代のリーダー=ファシリテーターになるべくファシリテーション技術を学ぶ、というのが本書の目的です。

詳しくは本書を読んでいただくとして、次世代のリーダーとなる小中学生自身の学びに、親子での学びに、うってつけの本です。特に、これからの時期、小中学生のお子さんを持つ親御さんがクリスマスプレゼントとして購入されるのにもピッタリです。もちろん、学校や塾などの教育関係者にもオススメです。

場所柄、紀伊國屋書店札幌本店にて数多く平積みしていただいております。全国の主要大型書店でもこれから順次発売される予定です。
写真は共著者の三神氏のFBより転載。お店の許可をいただいています。

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amazonでは早々と品切れになってしまいまって、購入したくても買えなかった、という声もチラホラ漏れ聞こえてきました。大変申し訳ありません。
現在は補充されていますので、興味のある方はどうぞ~

https://www.amazon.co.jp/dp/4434227203/


タイトル:『ぼく、学級会の議長になった。小中学生から始める ファシリテーション入門』
監修・著:三神英彦
著:沢田石誠
発売月:2016年12月
定価:1400円(税抜き)
出版社:柏艪舎

 

どうぞよろしくお願いします!!

ジェリー・カプラン『人間さまお断り』読書会 @学習塾はる

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先月になるが、学習塾はるにて、ジェリー・カプラン『人間さまお断り』の読書会&議論が行われた。今後、人工知能が台頭して、人間の仕事がどんどん奪われる、とまことしやかに言われているが、本当なのだろうか?

道義的なことでも人間が判断するのではなく、人工知能にゆだねるのであれば、政治も全て人工知能に判断してもらう方がよっぽどいいのではないか、ひいては、地球全体の七〇億人が直接民主主義として人工知能に政治的判断を全てを委ねればいいという意見もあれば、自動車の運転や機械的な作業が人工知能が行うようになったとしても、あえて人間がやることで価値が出るのではないか、という議論も出た。人工知能が車を運転するタクシー会社を選ぶのではなく、あえて人間が運転するタクシー会社を選ぶ選択肢がある方がいい、というわけだ。

コミュニケーションが必要な部分は人間が行った方が良いのか、それとも人工知能やロボットがコミュニケーションを含めて全て行った方がいいのではないか意見が分かれるところである。たとえば、飛行機のCAのような接客業もロボットや人工知能が行うとしたらどうなのだろうか。ロボットが接客を行う所と、人間があえて接客を行う二種類の航空会社なりデパートがあるとして、客がどちらかを選べるようにした方がいい、という意見が出た。人間とコミュニケーションをしたい人が行くなら、人間が接客している所に行くとして、それを望まないならロボットが接客する店なりサービス会社を選べばいい、というわけである。そうなると、感情労働も減ることになるのかもしれない。

問題となるのは、人工知能が全盛の時代になると、人工知能をどう活用するか、その是正や規制、法整備が必要となるので、そこが最大の課題となる。どこまで人間が行って、どこまで人工知能が行えばいいのか、その線引きや倫理的問題は全くもって難しい課題で、法律や制度設計は専門家でも意見が分かれるところだろう。先に挙げた七〇億人総直接民主主義という社会でも、人工知能による意思決定システムも全てオープンソースで構築すれば可能だ、という意見も出た。とはいえ、それは実に設計主義的な理想論を奏でる内容で、人間がシステムを構築する限り、何らかの不正が行われないという保証は一切無い。それこそ、東野圭吾『プラチナデータ』で政治とデータシステムが結託することの危険性を見事に描いているように。

とはいえ、技術的にもまだまだ人工知能は難しいところが多く、ディープラーニングでどこまで可能になるかは全くもって未知数だ。人工知能に支配されるというディストピア的な未来像におびえるのではなく、人工知能を人間がどう馴致して共存していくのか、それが今後の課題であろう。そんな議論だった。

ところで、人工知能に判断してもらうと一口に言っても、そもそも人間の意思のメカニズムはどうなっているのだろうか?そこでうってつけなのがノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』である。『ファスト&スロー』の読書会についてはまた別の機会に!