L'Appréciation sentimentale 2

映画、文学、漫画、芸術、演劇、まちづくり、銭湯、北海道日本ハムファイターズなどに関する感想や考察、イベントなど好き勝手に書いてます

ブックファースト渋谷文化村通り店の閉店とBOOK LAB TOKYO

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先日久しぶりに渋谷のブックファーストを訪れると、閉店を告げる看板が出ていた。ネットでは割と前から出回っていた情報のようで、店舗に向かう途中にスマホブックファーストのウェブサイトを見て閉店のことを知り激しくショックを受けたが、看板を見るとその現実をまざまざと見せつけらてしまった。渋谷に行く際にはよく訪れていただけに、本当に残念でならない、欲にここのビジネス書のコーナーで購入したプレゼン関係の本には大変助けられたものだ。

文庫本のコーナーには、河出書房から文庫化されたばかりのバルガス・リョサ『楽園への道』が大量に並べられているのを見て、このようなクォリティの高い本屋が消えてしまうことの無念さを感じずにはいられない。やはり、文芸の知識が充実している店員さんが本棚を作っている本屋さんは面白いね。これだけの規模の本屋が撤退するのも、時代の流れなのだろうか。ブックファーストはあおい書店6店舗を事業継承して新たに模様替えしているわけで、その辺の経営戦略が吉と出るか凶と出るか私には判断がつかないが、本好きの人間は書店で本を買い支えることが義務であるあるように思える。

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一方で、新しい本屋も渋谷に誕生している。道玄坂を上がっていく途中にあるBOOK LAB TOKYOだ。白を基調としたレイアウトに、ビジネスやアートを中心にカフェを併設したおしゃれな本屋で、イベントスペースとしても使われているようだ。こちらもなかなか面白い品揃えである。文庫本が少ないのが難点だが、全方位的に品揃えするよりも、一ジャンルに特化するのも一つの戦略だろう。

これからの書店は、単に品揃えを充実させるだけではなく、独特の強みを出すことが生き残りの必須条件となるだろう。ただ本を買うだけならamazonで事足りるので、次世代の書店で重要なのは、「体験」である。AKB48が「会いに行けるアイドル」というコピーを売りに、アイドルとファンの関係を更新したように、書店もAKB48劇場の如く、体験を読者に提供していくことが、今後の書店の新しい位置づけになるのではないかと思う。AKB48劇場のように、会いに行ける作家みたいな、そういう書店=劇場がこれからのスタンダードになって行くのではないだろうか。書店=劇場とは、何も作家が常駐しているというわけではなく、たとえば、著者によるトークイベントやセミナー、講座、あるいは読書会のような参加型のイベントによる体験ができる、そんな新しい姿だ。

個性的な品揃えによる未知なる本との出会いはもちろん、書店員の企画力、棚とペースの使い方、照明の工夫や店内レイアウトやデザインも今後ますます重要になってくる。
本を売る時代から、本という体験を売る時代へ。本屋のあり方の変化が求められている。

ABD読書会(北海道初上陸??)@オノベカ

先月ころ知り合いのS氏からABD(Active Book Dialogue)読書会って知ってる?という連絡が入った。いったい何のことだかさっぱりわからなかったが、どうやら新しいスタイルの読書会を北海道で行うとのこと。課題本は何がいいか相談を受け、いろいろなやりとりがあった末に平田オリザ『わかりあえないことから』(講談社新書)に決まった。発売されてすぐに読んで大いに共感した本であるが、読了してから数年経ったため、復習のような気持ちである。講師は大阪の三原さんで、会場はオノベカである。

読書会には様々なフォーマットがあり、大きく二つのやり方に分かれる。事前に本を読むか読まないか、だ。事前に課題本を読んでから行う読書会は、ディスカッションや感想を話し合うもの、報告者がレジュメを作ったりパワポで内容を詳細に解説する講義形式といったやり方が一般的だろう。事前に本を読まないで行う読書会は神田昌典さんが提起しているRFA(Read For Action)のように、本をぱらぱらめくって目についたキーワードを付箋に書いて全員でシェアするといった方法だ。どちらがいいかは、本の性質や、参加者の読書履歴、読書スキルなどによって好みも変わってくるだろう。

筆者は両方の読書会に参加したことがあるが、このブログでも何度か紹介した学習塾はるにて行われている読書会のように、事前にガッツリ読んでから一時間みっちり論点に沿ってディスカッションする形式にすっかり慣れており、個人的にも読了してから行う読書会の方が断然好きである。そのため、事前に本を読まなくてもいいメソッドであるABD(Active Book Dialogue)読書会には少々抵抗もあった。

ABD読書会の方法は、本を章ごとなりに裁断して紙の束にして(裁断することに抵抗があるなら、全員が本を持ち寄ってもよい)、参加者が好きな束を選択して各自のパーとを決める。次に制限時間内に自パートの束を読み、A4の紙数枚にエッセンスなり重要な部分を自分なりにサマライズしてマジックで書き込む(形式は自由。イラストを交えても良い)。A4の紙を章ごとに順番に壁に貼って、リレーのように各パートの担当者が順番にプレゼンして内容を説明するというやり方だ。


最初に練習代わりに、冒頭のはじめにと第一章でABD読書会を行い、次に第二章からあとがきまで通して行った。

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実際にやってみると、さらに紙にわかりやすくアウトプットするため、必然的にどこが重要なのかを考えながら自分のパートを深く読む必要がある。さらにはプレゼンの技術も必要なので、なかなかハードだ。実際にみんなのリレープレゼンを聞いていると、それだけで一冊の本の流れがつかめたような気になる。

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プレゼンの後は、A4の紙をざっと見渡して、気になったり面白かったA4の用紙に付箋をつけてピックアップして、各用紙ごとに分かれてみんなでディスカッションをして気づきをシェアして終了である。会場の都合の関係で、ディスカッションの時間がほとんどとれなかったが、なかなか面白いメソッドだと感じた。パラパラめくるだけの読書会に不満のある人にとっても大いに有効だろう。じっくり読んでから参加すると、理解も深まると思う。

一回体験してみると、二回目以降は時間の短縮が可能だ。ABD読書会は一回だけで一冊を無理に行う必要はなく、一章を全員で分担しながら何回も行って一冊を読了してもいいし、本の難易度や参加者の都合に応じて好きなようにやればいいとのことだ。小説や学術書でも使えるらしいが、果たしてミステリーでやってみるとどうなのだろうか???

さらにはビブリオバトルを行って、チャンプ本でABD読書会を行うといいのでは、なんて案も出た。これをやるとなると半日近くかかりそうだが、本を使った学びとワークショップとしては大変面白いメソッドである。版権フリーとのことなので、現在普及活動中とのことだ。

『ぼく、学級会で議長になった。小中学から始めるファシリテーション入門』好評です

久し振りの更新です。
おかげさまで、拙著『ぼく、学級会で議長になった。小中学から始めるファシリテーション入門』は紀伊國屋札幌本店を中心に多くの方に手にとっていただいております。特に、紀伊國屋札幌本店入口すぐそばの新刊コーナーでは、発売されてからずっと継続的に平積みをしていただいています。二階の教育書のコーナーにも20冊近く平積みされています!!!発売直後には無理言って50冊入荷していただきましたが、すぐに完売しました。その後も何度か追加注文していただいたようで、これほどまでに紀伊國屋書店さまに置いていただけるのは、本当にありがたいことです。

Amazonでも発売後数日もしないうちに品切れとなり、しばらく購入出来ない状態が続いていましたが、その後たっぷり入荷されてからは週に6,7冊くらいのペースでコンスタントに購入いただいております。手にとってくださった方には感謝するばかりです。

児童書の形式で書かれたファシリテーション本はおそらく日本初で、しかもファシリテーションがテーマになっている児童文学というのも、たぶん日本初のものです。そういう意味では数多く発行されているファシリテーション本の中でも、比類のない、かつ先鞭を付ける内容であると言えます。

4月になり、新しい環境でファシリテーションが必要とされる場面が出てくるでしょう。ぜひ、小中学生の親御さんだけでなく、大人でも、興味のある方はぜひ手に取ってみてください。今後は、札幌の某児童会館で子供達主体の読書会を計画してます。
過去にも読書会を行いました。他にも、こんなことをやって欲しい、とかファシリテーションに関して興味のある方、感想などぜひご連絡ください。
よろしくお願いします。

『ぼく、学級会で議長になった』読書会@学習塾はる

拙著である『ぼく、学級会で議長になった』が発売されて一月半ほど経ちました。幸いにも、評判は上々のようです。昨年暮れには共著者の三神さんがAir-G’FM北海道)の番組Actionのチバカフェと言うコーナーにも出演されて本を紹介してくださるなど、いろいろと宣伝していただいています。

1月14日に幌平橋駅近くの学習塾はるにて月一回行っている読書会の課題本に『ぼく、学級会で議長になった』を選んでいただきました。元々この読書会は、仲間内で月一回行っているイベントで、読書会で話題になったトピックからよさげなものを、硬軟様々なものから課題本としてピックアップしています。これまで3年以上続いており、今回で40回目!その様子はこれまでも何回過去のブログでも紹介しています。以前ブログに書いた後も、ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』、デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学 』の読書会が行われ、打って変わった選書となりました。メンバーは自由参加で、いつものメンツもいれば、今回で二回目という方、そして初めて参加された方が二人いらっしゃいました。

さすがに自著が読書会で採り上げられるとは夢にも思いませんでしたが、予想に反して、本の内容を事細かに取り上げて作者がまな板の鯉にされる、というわけではなく、ファシリテーションを教育に導入することの意義や問題点について、様々な論点から議論が飛び出しました。そのほとんどは、本書の内容を遙かに超えた議論になって、場は大きく盛り上がりました。


・本の内容はセミナーの教員のやっていることに近い。
・日本の義務教育は一方的に先生が学生に話すスタイルだが、ファシリテーションを取り入れることによって、よけいな分断が起きるかもしれない。
・学生が授業何も話さないのは、日本の「和」ではないか?
・現状では教員がファシリテーション教育を受けていないので、はたしてうまく教員がファシリテーションを授業に導入できるのか?
・教員養成の段階でファシリテーションを取り入れるべき。
ファシリテーションをうまくできる教員とそうでない教員の格差が生じるのではないか?ひいては学校格差になって表れてくるのではないか?
ファシリテーションを行うことによって、トラブルが起きるのでは?その対処は?
・教員同士の協力が必要。担任だけでは足りないので、学年全体での協力し合う必要がある→担任制を止めた方がいいのでは?
ファシリテーションを教育でやるにはエネルギーが必要。最初はクラブ活動からファシリテーションを始めるといい。
・学校教育でファシリテーションを導入する学校とそうでない学校の格差が生じる可能性がある。教員にどのようにファシリテーションのことを知ってもらうのか?
文科省トップダウン方式でファシリテーションをカリキュラムに取り入れるとロクなことにならないのではないか?
ファシリテーションは、役所が住民を説得される手段として使われているのが現状。
ファシリテーターが参加者を促す方向性が重要。
・そもそも学校で学芸会を行うとき、学芸会を行う意味はあるのか?という前提を疑う議論が出てきたときはどう対処するのか?
ファシリテーションはあくまで「促す」ことであって、教育の「進歩」ではない?
・そもそも教育でファシリテーションを行う意義はどこにあるのか?成績が上がるなど、わかりやすい成果の可視化が必要ではないか?
ファシリテーションで、少数意見、マイナーな意見をどうすくい上げるか?
そのためにも、多角的な意見をどう出すのかが重要。
有識者会議のように、日本は素人が専門的なことをやってはいけない、という風潮がファシリテーションの導入を妨げているのではないか?
・前提を均一化する必要がある。


以上のような議論が出ました。
というわけで、「教育でファシリテーションを」と呼びかけても実に多くのハードルがあるようです。私自身の感想としては、一口にファシリテーションと行っても結局は人間と人間の生々しいやりとりがウェイトを占めるため、人を通して学ぶのがファシリテーションの本質にあるのではないか、という思いを抱きました。

最後はみんなで記念写真!本当にありがたいですね。

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この読書会の様子は、いつも読書会でファシリテーターを務めている藤本さんのブログでも紹介されています。よかったらこちらもご覧ください。

本書を手にとってくださった全ての人に、心からの感謝と愛を捧げます!

井上浩輝写真展@カフェエスキス

小、中学校時代の同級生であり、2016年に日本人で初めてナショナルジオグラフィックで最も優れている写真20枚の中に選ばれた井上浩輝氏のトークイベントが開かれるということで、札幌の円山にあるカフェエスキスに行ってきた。せっかくクラスメイトの晴れの場なので、当時の同級生にも何人か声を掛けてみたところ、歌手としてライブ活動を精力的に行っているいくもまり氏も応援に駆けつけてくれた。

彼と最後に会ったのが1999年で、なんという偶然の巡り合わせなのか、彼はカフェエスキスの入っているビルのマンションの一室に住んでいた。今も覚えているのだが、99年の文化の日に、中学時代のクラスメイトが10人くらい集まり、ワイワイやったのが最後である。その後彼は新潟に行ってしまって、以来十数年以上も音信不通になってしまった。その間に、彼は世界的なフォトグラファーとして故郷の札幌に凱旋してきたわけである。

カフェのドアを開けてテーブルにいた彼の方に近づいていくと、ぼくが誰かがすぐにわかったようで、「久しぶりだね。来てくれて嬉しいよ」と本心から喜んでくれたようだ。やはり来てよかった、と心から思えた。数年前にFBでつながったものの、再会まで17年以上もの歳月が流れてしまった。最初は会話に若干のたどたどしさは感じられたものの、すぐに歳月の空白感は消滅し、つい先日も顔を合わせたような、そんな気持ちになった。

トークでは写真家になったこれまでの経緯が語られた。カフェエスキスに入っていたビルに住んでいたため、いつかはここで自分のイベントを開催してみたいと思っていたこと、医者、弁護士になろうとしていずれも挫折したものの、カメラを入手したことをきっかけに写真家になるべく撮りまくったこと、東川町がまちを挙げて写真をテーマに取り組んでいるとは知らずに婚約者と一緒に移り住んだことなど、辿ってきた人生の足跡を聞いただけでも、その不思議な巡り合わせの連続に驚きを感じずにはいられない。

彼は北海道の動物、とくにキタキツネや熊の写真をメインとして撮影している。スライドで次々と映し出されるキタキツネの写真は、どれも北海道在住ながらこれまで見たことのなかった表情のキツネばかりで、こんなにもキツネの表情は雄弁で豊かなものだったのかと感心した。代表作である「たとえ君がどこへ行こうとも、どこまでもついていくよ!」と題された、雄のキツネがメスをすぐ後ろから追いかけているキツネの表情は、お互いに愛おしくてたまらないというのが伝わってきて、実にチャーミングでかわいいと叫びたくなってしまう。↓はポストカードである。

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トークイベント終了後は、近くのファミレスで閉店近くまで3人で談笑。中学卒業後20年以上経ってもこうして集まって昔話に花が咲くのは、人生のかけがいのない宝の時間だとしみじみと感じた。三人それぞれの人生で得てきた経験は全く違うが、小中学校時代に教室を共に過ごした友達と再び巡り会える幸せは、何にも代えがたいものである。またの再会を誓ってタクシーで解散。今後の活躍が楽しみだ。

なお、このトークイベントには某番組の取材カメラも来ていて、大いに驚いてしまった。詳しいことはまだ言えないが、近々予告が解禁になったら告知させていただきます。

写真展は1月31日まで。
詳しいことはお店のウェブサイトにて。ぜひ行ってみてください!
http://cafe-esquisse.net/gallery/index.php

2016年大掃除終了

クリスマスに久し振りの腰痛を発症し、その翌一日たっぷり休むとだいぶ回復した。自分の中で腰痛は、良くも悪くも、人生の変わり目に起きることが多いので、これも今後のいい変化の前触れだと前向きに捉えておくことにして、その後は部屋の大掃除をしまくり。部屋に溜まっていた、明らかに不要と思われる書類、チラシ、雑誌記事を捨てまくった。2016年最後の日の燃えるゴミの日の前日だったこともあって、一度始めると歯止めがきかなってしまって、市で定められている燃えるゴミの袋で最も容量の大きい40リットルいっぱいに詰め込む頃には、いつの間にか明け方5時近くになってしまった。総重量はおそらく20kg近くはあるだろう。部屋の見た目は何も変わらないが、こんなにも不要なものが部屋にあったのかと思うと驚きである。腰痛の病み上がりにヘヴィなゴミ袋をごみステーションに運ぶのは、実に大変な作業ではあった。

それで終わりかと思いきや、なんだか普段なら手の届かないところや、物陰に隠れている箇所などを重点的に掃除をしなければ気が済まなくなってしまって、「もういいや、ここで終了」と思っても、汚れが残っているところはどんよりとした波動を感じて気になって結局大晦日も午前中から掃除を慣行。ようやく終わったところである。不要なものを捨てて部屋の汚れも取れた分、心が軽くなったような気がする。
 

今年放映されたフジテレビの世にも奇妙な物語で、深田恭子扮する新人アナウンサーがものを捨てた分だけ新しい仕事が入ってきて、どんどん出世していくというストーリーがあった。捨てるために捨てる、というのは断捨離の罠だ。断捨離が流行するのは、捨てた分だけ何か新しいことが起こるのではないかという期待感が不要なものを捨てる意欲を駆り立てるからだ。

人生でいろいろなことを経験するたびに人間の波動は変わるものである。それに伴って必要なものや不要なものも変化していく。かつては熱烈に必要だったものでも、今では全く見向きもしなくなったものも出てくる。時期が来れば、いらないものは自然と捨てることができるようになっていくから、あまりこだわらないのが一番だ。

去年も一昨年もほとんど掃除らしい掃除をしなかったが(3年前はこれでもかというくらいの書類を捨てたものだが)、それだけ昨年末と今とで心身も大きく変化したのだろう。今はもう罠に陥ることがほとんどなくなって、不要なものを捨てた分、なんだか自信も出てきた。

今年はなんとか本も出すことができた。いろいろと難産で、はたして本当に出版されるのだろうかと思うことも一度や二度ではなかったが、ともあれ無事に世に出たことで本当に安心した。来年はもっともっとインプットを増やして、インプット以上にアウトプットを増やしていきたいと思う。

遠藤周作文学館に行ってきた

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今年の6月か7月くらいに、地元の北海道新聞の何かの記事で遠藤周作記念館のことが紹介されているのを読んで、所在地が長崎であることを知り、大いに興味を持った。調べてみると、長崎市のバスターミナルからバスで75分ほどらしい。それならば、長崎に行く際にうまく時間を工夫すれば訪れることが可能であると算段をふんでいたが、うまい具合に12月に所用で長崎に行く機会があり、今回を逃すともう二度と訪れることはないであろうと思い、遠藤周作文学館に向かった。

長崎駅の観光案内所でルートを訊ねると、長崎外海地方のパンフレットをもらい、駅の歩道橋を降りたところにあるバス停を紹介された。予定よりも7,8分ほど送れて到着したバスに乗り込むと、文学館までバスで1時間半以上もの時間がかかった。山を何度も越えるため、左右の急カーブが何度も連続して揺れが激しく、乗り物酔いする体質のためバスでの読書はあきらめ、景色をながめやる。北海道では考えられないくらいの細い道とその周辺に連なる家並みに目を奪われる。町をいくつも通り抜け、狭い山道をバスは高速でグイグイ突き進む。目的地となる道の駅のバス停で降りてから、細い道を下った先にあるこの文学館は、ほとんど崖の上に位置しているため、夕方になるとその美しい日差しが注ぎこむ。この場所こそ、『沈黙』の舞台となったトモギ村のモデルなのである。

文学館内部は大変見晴らしのよい光が充溢する空間であり、グレゴリオ聖歌の優しい音色がBGMとして鳴り響いている。遠藤周作の生い立ちや創作の苦悩の足跡がわかるように、生誕から折々の氏の言葉がパネルで展示されている。生原稿を見ると、原稿用紙の裏にびっしりと細かい文字で、何度も修正を加えて推敲を施しているのがわかる。作家の生原稿は刺激の山だ。取材ノートや原稿を見ると、小説を完成させるために苦心惨憺する遠藤周作の息づかいが感じられ、こちら側も大いにインスパイアされる。見るだけで、文学偏差値が上がってきそうだ。この刺激を受けるためにここまで来たのだ!

別室には書庫の本がきれいに整理整頓されている。伝記、古典、日本文学全集、世界文学全集など、ベーシックな文学作品がほとんど欠けることなく並べられている。これらの膨大な書物遠藤周作の作家としての土壌を形成したわけだ。『沈黙』によって遠藤周作ノーベル文学賞候補にも上がっているとされているようだが、実際はどうなのだろう?もちろん、作品の水準からして、その可能性は十分あるだろう。

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館内の壁に虹が出現。ちょうど通りかかった係員さんが言うには、季節によってステンドグラスを通して虹が出現するとのことらしい。

折しも、マーティン・スコセッシ監督が遠藤周作の代表作『沈黙』を原作とした映画の公開が来年に迫っているため、街の書店では、新潮文庫を中心に遠藤周作の作品が平積みされている。没後20年近く経つが、それでもなお、これほど絶版にならずに入手できる作品が多い作家もまた珍しいのではないだろうか。Syusaku Endoはもっと評価されていいと思う。その後は出津文化村までバスで移動し、沈黙の碑へ。

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そして、ド・ロ神父記念館へ。ここもまたすごい。ド・ロ神父の生涯には大変な衝撃を受けた。他の地域では全く無名だが、こういう人こそ教科書で紹介されるべきである。この人についてはまた別の機会に書こう。

帰りの夕日が実に美しい。虹といい、この雲と光のグラデーションに彩られた空の輝きに、ここに来たことの祝福を受けたような気がした。

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